鍾進添大師は、中国福建省泉州の著名な暦家である鐵筆子(てつびつし)の嫡男として1934年に生まれる。中興大学の法学部を卒業後、星元大学にて博士号を取得する。幼少より家学の五術全般を伝承しており、筆名は墨文(ぼくぶん)といい、文学家、五術家として活動を開始する。清朝宮廷の高官であり、光緒帝より「璽(じ)(印章)」を賜った懐仁堂(かいじんどう)における天象学府の司天監(してんらん)(天文官)を務めた国師・劉培中(りゅうばいちゅう)に拜師する。その後、高芳先(こうほうせん)、朱子珍(しゅしちん)、徐鼎銘(じょていめい)の諸大師について五術における学芸を研鑽する。天文通書に精通し、仙学、医学、易学、命・卜及び堪輿(かんよ)(風水)と星相などの五術伝統文化の全般に深く精通した台湾における人間国宝的存在。
青年時代より数多くの預言を通じて、国運、経済情勢に携わり、国家機密に及ぶ数多くの実績を残す。五術の深奥に通じ、中五術教育協会顧問団団長を歴任し、台湾の学習派の代表としてその知名度は国内外に広く馳せる。著作として、『擇日大鑑(たくじつたいかん)』『堪輿大鑑(かんよたいかん)』『命理大鑑(めいりたいかん)』『相法大鑑(そうほうたいかん)』『命運隨筆(めいうんずいひつ)』『霊禅易占(れいぜんえきせん)』『羅経用法(らけいようほう)』『五術札記(ごじゅつらいき)』…等二十数書を著し、毎年『鐵筆子民暦(てんつびつしみんれき)』などの通書を発行。
日本国内では、台湾の五術世界とのつながりや情報が乏しいため、鍾進添老師の実績などについては、おそらく何も語られてはいないでしょう。
ここで私の知る限りの幾つかの実績を挙げ、何故、台湾五術界において、国宝的存在と鍾進添老師が呼ばれるのかをご紹介したいと思います。
若い頃から青年預言家と呼ばれ数多くの未来を的中させたが、特に毛沢東の死を預言したことで国内外に広く知れ渡るようになる。毛沢東(1893-1976年9月9日)と周恩来(1898-1976年1月8日)の死をその前年の1975年の10月発行『鐵筆子民暦』の1976年の予測にて次の一文を発表する。
中國大陸有巨變、毛周星光消逝、毛蘇衝突無緩和之象、美匪之接觸仍須注意。
「中国大陸に巨大な変が起こる。毛沢東と周恩来の生命が消逝(消えて逝くこと)する。そのため、毛沢東とソビエトの衝突は緩和して無くなる。アメリカと中国の接触に注意すべき。」と、明確に毛沢東と周恩来の二人が次の年の1976年に死ぬことを明言し、見事に的中させ、マスコミから一気に「預言家」と呼ばれるようになる。
私が実際に鍾進添老師について学ばせていただいた陰宅風水の実例の一つに、高芳先老師の陰宅(墳墓)があります。高度な風水ロジックを用いて、山一つ丸ごと陰宅として使う技法を駆使し、鍾進添老師の風水の粋を集めて建立した鍾進添老師の恩師である高芳先老師の陰宅は圧巻でした。
そして、陰宅風水の是非を問うその効果として、高芳先老師の三人の息子のうち、一人高華柱は父親である高芳先老師よりも高官位の國防部長(国防長官)となり、現在も國防部長を務めております。
また、この墳墓には総統蒋介石の長男であり、中華民国第6任・第7任(第6期・第7期)総統を務めた蒋経国総統(1910-1988年)からの記念碑まで寄贈されておいてあるのですから、高芳先老師が国賓クラスの人であったことは間違いがないでしょう。そして、国賓クラスの風水を施せる人として、風水を気にする外省人の人たちが安心して指名できる風水師が鍾進添老師であったことは言うまでもないでしょう。